温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。
明けましておめでとうございます。たいへん遅くなりましたが、今年も宜しくお願い致します。
お正月を無事に迎えることができ、今年も皆様方とご一緒に、健康で暮らせるといいなぁ、などと思いながら過ごしているうちに、あっという間に春のお彼岸を迎えてしまいました。
天候が比較的良かったためでしょうか、お正月初詣・お稲荷様の初午祭・春のお彼岸と、例年にないたくさんの参拝者で、年々賑やかになる温泉寺を嬉しく思います。有難うございました。
さて、毎年思うことですが、下呂における春のお彼岸には、いつも1つの変化が見られます。どこが変化するのかと申しますと、お墓にお供えしてあるお花が変化するんです。
最初に申し上げておきますが、温泉寺の173段の石段の両側に広がる墓地は、皆さんそれぞれ熱心にお墓参りされるものですから、年中お花がきれいにお供えしてあります。(住職が温泉寺を自慢できるものの第1位です!)ですから、私を含め、石段を上がってお寺へ来る人達は、本当に気持ちよく石段を上がることができます。観光客の方からも、度々感心する声をお聞きします。
お花の内容は、季節により若干変わり、お正月は松やナンテンが中心。小正月以降は、花筒が凍るため、青木か猫柳が中心です。それが3月のお彼岸前に、ほとんど全てのお墓のお花が、華麗なものに変化するんです。これから以降は、枯花を見ることが滅多にないぐらい、華麗なお花を定期的にお供えされるのです。皆様の、ご先祖様を思う篤い信心が、温泉寺の景観を美しく保っていると言っても、過言ではありません。
更に、1つ注目すべき点があります。温泉寺の墓地内には、勿論無縁となってしまったお墓や、墓守りする方がご遠方にお住まいで、なかなかお墓参りできないという状況のお墓も多々ございます。でも、これらのお墓も、綺麗に守られております。住職も、墓地管理委員会も、救いの手を差し伸べているわけではありません。
実は、これらのお墓も、地元にお住まいの方たちの手によって守られているのです。
例えば、「ここのお爺ちゃんには、生前お世話になった。」とか、
「私の実家の本家だ。」とか、
「私の母が、ここの先々代の爺ちゃん婆ちゃんに育ててもらった。」とか・・・。
理由は様々ですが、ご自分の家のお墓以外にも、きちんとお花を立て、お線香をあげておられるのです。1部の方に限りません。たとえお花を立てることはなくても、静かに手を合わせておられる姿も、度々お見かけします。つまり、ほとんどの方が、自分の家のお墓、他人の家のお墓と一々区別せずに、お世話になった方へ、真心のこもったお墓参りを実行されているのです。ですから、どのお墓を見ても、綺麗に保たれているわけです。(よく、他人のお墓は、触ると良くないという言葉を耳にしますが、温泉寺墓地内に、そのような概念は無さそうです。)
本当に立派な信心であると思います。同時に、住職として感謝しています。
「信心ある処、景観益々美なり。」 です。
温泉寺の本山であります、臨済宗、妙心寺の開山様は、今から650年前に遷化なさる時、お弟子さんに遺言を残されました。その遺言の中に、このような言葉があります。
「前略・・・将来、たとえ私を忘れることはあっても、応灯二祖(私の師匠の大灯国師と、そのまた師匠の大応国師のお二人)の深いご恩を忘れるようなことがあれば、決して私の弟子であるということを許さない。・・・云々・・・」と。
私たちに置き換えて解釈しますと、
「将来、父親の私のことを忘れても、お前のお爺ちゃん、お婆ちゃん、また曾爺ちゃん、曾婆ちゃんのご恩を忘れるようなことがあれば、決して私の子供であるということを許さない!」
と、自分の子供に向かって言っているということです。
なかなか言える言葉ではないですよねぇ。私自身、自分の子供にまだ言えません。それどころか、逆に「誰のおかげで生きてると思ってるんだ!」と、子供に言ってしまいそうです。
でも、今現在、温泉寺の墓地内にお墓を持つ方たちの親御さん達は、かつて自分の子供たちに開山様と同じようなことを伝え、諭してきたのではないかと思います。綺麗に保たれている墓地は、その立派な教育の賜物ではないかと思います。
前にも記述しましたが、前述の墓地内は勿論、石段掃除の奉仕をして下さったり、境内の掃除・建物内の掃除を奉仕して下さる方が、温泉寺にはたくさん見えます。その方たちに、奉仕をする明確な理由なんて無いのではないかと思います。その証拠に、奉仕に対する物質的・精神的な対価が、お寺から一切還元されていないからです。(すみません・・・。)
ということは、皆さんがそれぞれにお持ちになっている広大な信心と、慈悲心による行為であると、私は認識し、頭が下がるのです。その広大な信心・慈悲心を、「仏心」とよび、そこから生まれる報恩の行・つまり奉仕という形で現れる姿を「禅」とよんでいるのです。妙心寺の開山様の遺言は、今まさに、温泉寺のまわりで実行されております。それも地元の方たちの手で。
「信心ある処、景観益々美なり。」
しつこいようですが、この言葉、実はこの不肖坊主が勝手に作った言葉です。温泉寺を見ていると、本当にそう思うからです。なにしろ、境内の中で一番汚い所と言えば、間違いなく住職の守るべき、「歴代祖師のお墓」(歴代の和尚様のお墓)だからです。わかってはいますが、相変わらず汚いということは、住職自身の内容の問題です。明日、妙心寺へ、開山様の650年法要のお参りに出かけます。朝、きちんとお墓にお参りしてから出発しようと思います。
平成20年の紅葉ライトアップに登場した「特設もみじ足湯」は、こんな感じです。
(写真提供・実行委員会記録班・一色氏)
肝心のコンサートや紅葉の写真は、前回、前々回の茶話にのせています。
ご協力、有難うございました。
早いもので今年も残りあと僅かとなりました。11月は、紅葉のライトアップで境内は大賑わいでした。終了後、後片付けを経て、お正月に向けた準備をしていましたら、ついついお礼が遅くなってしまいました。本当に多くの皆様の温かいご支援・ご奉仕のおかげで今年のライトアップも大盛況のうちに終わりました。衷心より感謝申し上げます。
特に宣伝にお力添えをいただきました、下呂市観光客特別誘致対策協議会の皆様。
足湯の設置においては、下呂温泉旅館組合様、事業組合様。
毎年、ライトアップに快く賛同・ご協力賜っております、地元旅館の皆様。
趣旨にご理解賜り、温かく見守って下さる地元商店街の皆様。
行事に花を添えていただいた地元の「押し花アトリエ花遊び」の皆様。「四季の会」の皆様。
行事を盛り上げて下さった「飛騨獅子太鼓」の皆様。地元尺八奏者、クラリネット奏者の皆様。
遠くからはるばる駆けつけて下さった筝曲の山路みほ様、尺八の金子朋沐枝様。
僧侶のバイオリン説法で話題をよんだ山本正憲様。
抹茶席や、まかない等でお世話になった近所のおばさん達。
寒い中、準備や掃除、交通整理や道案内など、全て奉仕で労力と時間を提供して下さった地元の有志ボランティアの皆様。(実行委員会の皆様)
今年も美しく紅葉してくれた150本のモミジやカエデの皆様・・・
このロケーションを築きあげた歴代住職の皆様、地元の方のご先祖様達。
本当に大きな力で支えられている行事です。このライトアップだけでなく、現在の温泉寺の存在自体が、大いなるものによって支えられていると、しみじみ感じます。
個人的には、人様に公言しづらい、情けないことも多々ありましたが、その都度、周りの皆様に助けてもらって、息永らえています。
今、生かされていることを感謝して、また来年も頑張りたいと思います。
尾崎放哉の句より・・・
「ひょいと呑んだ茶碗の茶が冷たかった。
ひょいとさげた土瓶がかるかった・・・
冷え切った番茶の出がらしで話そう!」
種田山頭火の句より
「道は前にある。まっすぐに行こう!」
(写真・平成20年11月22日・山路みほさんと金子朋沐枝さん)
今年も恒例紅葉ライトアップが始まりました。昨日15日は、昼夜あわせて1500名の来場者があり、スタッフ一同喜んでおります。
ご協力いただきました下呂市長様・下呂温泉旅館組合様・下呂温泉観光協会様・下呂温泉事業組合様及び地元の皆様には、こうして無事開催にこぎづけられましたことに対して感謝しています。有難うございました。
最近、妙に生物学者の先生方の書物に目が留まります。その中で非常に考えさせられることがありました。「もみじ」の葉っぱの色は、間違いなく退化していくことで緑色から黄色や赤に変化するものだと、これまで思っていましたが、実はそうではなく、元々どんな葉っぱでも、赤や黄色の色素を持って生まれてきているということです。確かにもみじでも、桜でも、本当に最初の芽生えの時は、うっすら赤い色をしていますよね。ところが、芽生え始めると次第に緑色素(クロロフィル)が葉っぱを覆ってしまうことで、緑色の葉っぱになるのだそうです。
ですから、秋になり冷え込んでくることで、退化(人間で言うと老化)するのではなく、ようやく本来の色に戻るという訳なのだそうです。
なんだか私たちの心の中に似ています。私だけでしょうかな。釈尊の教えによると、私たちの心の中には、本来、生まれつき備わっているきれいな心・優しい心(一言で言うと仏心)があるはずなのに、プライドや、物欲などにより全然きれいなところが見えてこない。我執(オレが・私が)が、仏心を隠してしまっている。きれいな十五夜お月様が雲に隠れて見えないような状態なんじゃないかと思います。
私は普段、どっぷり俗世間に浸かっていて、ちっとも坊主らしいところがありませんが、幸い一緒に座禅をして下さる方があり、その方達のおかげで月に一度は座禅をします。座禅に打ち込むことを、禅寺では接心と言います。読んで字の如く、心に接するということです。でも、もっと本当のことを言いますと、接心の接という字を、わざと旧字体で「攝」という字を用い、「攝心」と書くのです。「心に接する」という意味は同じですが、攝は耳が三つありますよね。更に耳という字の中には「目」もありますから、目も三つあるわけです。私たちは普段、許されて二つの耳、二つの目で聞いたり見たりしているのですが、本来心に持っている三つめの耳・三つめの目を呼び覚まそうというのが「攝心」の本当の意味ではないかと思います。本来持っているものに戻るということで、まさしく紅葉と同じです。
以前にも紹介したような気がしますが、イギリスのエリザベス女王のお話です。戦後、かつて植民地支配していたオーストラリアや東南アジアの各国の首脳をバッキンガム宮殿に招いて晩餐会を開いたときのお話です。当時、イギリスの誇るテーブルマナーを、招待された各国首脳はまだよく理解していませんでした。そこで招待客一人につき、二人のイギリス政府の側近がつき、テーブルマナーを指導しながらの晩餐会でした。各国首脳は緊張しながらフォークを口に運んでいたそうです。どうやら、イギリス政府は、この誉れ高き文化によって権威を誇示しようとする思惑があったようです。皆がようやくメインディッシュを食べ終わったとき、ある首脳が、ホッとしたのか、ついついフィンガーボールの水を飲んでしまいました。(フィンガーボールは指を洗うための水です。)間違いに気づいたその首脳は、赤っ恥をかいてしまいましたが、その直後、なんとエリザベス女王までもがフィンガーボールの水を飲み干しました。国賓を迎え、イギリスという国家をあげての公な晩餐会で、エリザベス女王のした行為は、イギリス王朝、イギリス政府関係者から激しく非難されました。しかし、エリザベス女王は涼しい顔で、その後は緊張のほぐれた各国首脳陣と楽しく会話をされ、和やかな雰囲気の中で晩餐会を終えられたということです。
このエリザベス女王の行為をどう思われますか?いろんな立場・文化・そしてそれに伴うプライドが交錯する中、エリザベス女王は本当に真心のこもったおもてなしをされたと思います。間違いなく、三つめの目、三つめの耳で各国首脳と接しておられたのではないかと思います。
今、温泉寺の紅葉は真っ盛りです。それぞれの木の、それぞれの葉っぱが、一生懸命本来の自分の色を取り戻しています。そのおかげで、昼も夜も、私たちの心は和み、安らぎます。
私自身も本来の姿に戻らねばと思いつつ、ついつい紅葉の色と同じような顔色をしながら、毎晩ライトアップを楽しんでいます。(もみじよりも先に紅葉してしまいました・・・。尚、ライトアップ時は酒の提供はありませんし、私も終わってからしか飲んでいません。スタッフの皆さんも同じです。ご了承下さい。)
こんにちは。朝晩、涼しい秋風を感じるようになりました。中秋の名月も、もう間近です。
近年、お盆が終わると決まって体調を崩しておりましたが、今年は大丈夫のようです。それもそのはず。一日、境内を観察していますと、朝・昼・夕方と、それぞれたくさんの方がお見えになります。そして有難いことに、それぞれがご自分の気になる箇所を、セッセと掃除して下さっているのです。草を取って下さる方。クモの巣を取って下さる方。落ち葉を掃いて下さる方。長い長い石段を掃いて下さる方。また、本堂や観音堂の中を掃除して下さる方もあります。ほとんどが住職の不精進をご存知の地元の方々ばかりです。そのおかげ様で、小生、今年は熱中症にもならずに元気でおれる訳です。有難い反面、住職としての情け無さも勿論感じます。その都度、御礼を申し上げなくてはと思うのですが、中には御礼も言えず、失礼してしまっている場合もあります。(すみません。)
正確に覚えてはいませんが、高見順さんの小説の中に、「起承転々」というお話があります。
ある旅の僧が、今晩の一宿一飯(投宿)のお願いをしようと、ある古寺の門前に立っていました。そこへ村の古老がやってきて、
「ここは現在住職もいないし、幽霊が出るという噂もあるから、誰も近寄らないから、別のお寺に頼みなさい。」
と、旅の僧に告げます。しかし、旅の僧はそれを振り切って、荒れた境内へ入って行きました。
玄関先の囲炉裏で暖をとっておりますと、そこへ忽然として一人の老僧が現れました。老僧は火箸で灰に、何やら漢詩の二句を書いては消し、書いては消しして、ため息をついています。そこには
「寂寂たる寒山寺。 更に一箇の僧無し。」
(人気の無い、全く寂しい寒山寺。更に後継の僧も無し。)
と、書かれていました。坊守も無く、荒れ果てた寺の現状に、嘆き悲しむ老僧の姿がありました。後の二句をつけたくても、今後どうしていいかわからず、とうとう続きの二句を書けずにいて、ため息をついているのでした。
すると旅の僧がすかさず、続きの二句を書き足しました。
「風は空楼を掃う箒。 月は古殿の灯と成る。」
(時折吹く風が、誰もいない境内の落ち葉を掃ってくれるし、月が常住のともしびと成って、古寺を明るく照らしてくれるよ。)
これを見た老僧は、満足そうに微笑んで、どこかへ消えていきました。
これが「起承転々」の大まかなあらすじです。温泉寺もまともな坊主がおりません。しかし、地元の方達が風となり、月となってくれるおかげで、景観や古い建造物がきれいに守られているのです。何より、みんなが温泉寺を心の拠所としている姿が、立派でありますし、この尊い心を、そこに住まわしていただいている坊主自身が汚すことのないように、謙虚でいなければならないと反省しています。(もう、どれだけ反省してもおいつきませんが・・・。)
今月は、境内に安置されてから150周年となるお稲荷様の再建落慶。そして11月の紅葉シーズンに向けた準備も始まっています。一人でも多くの方に、来て良かったと思ってもらえるような温泉寺でありたいと願っていますし、地元の方の熱意のおかげで、そう成り得ることを確信しています。