温泉寺茶話

温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。

紅葉ライトアップ  2005年11月21日更新

最近忙しくてなかなか更新できませんでした。でも忙しいというのは、逃げ口上ですよね。
ただ今、温泉寺周辺は美しくライトアップされています。紅葉のライトアップは、本当に風情があって好いものです。この行事は、たくさんのボランティアの方々によって支えられています。準備の段階から、有志の皆さんによるご苦労は多々あります。機材の設置、看板の設置、宣伝広告等々全て手作業によるものです。期間中は案内係、ライト・ローソクの点灯係、抹茶席の接待係と、本当にたくさんの方々が助けて下さいます。感謝・感謝です。
19日には尺八献笛、本日21日は二胡コンサートと、このライトアップもいよいよ盛り上がりをみせます。
なにより地元の皆さんに愛される寺になれば、これ以上のことはありません。お釈迦様の時代、インドでは寺のことを「ビハーラ」と呼んでいたそうです。「ビハーラ」とは、「癒しの場」または「安心の場」という意味です。温泉寺も地元の皆さんにとっての「ビハーラ」でありたいと願っています。
最後に、今回添付の写真は、先日試験点灯の際に、望川館の支配人さんが撮影して下さったものです。有難うございました。

 

モミジ  2005年11月2日更新

 11月に入ってから、朝晩の冷え込みがきつくなってまいりました。毎朝の鐘つきやお勤めが、だんだん億劫になってきます。どこが一番寒いかというと、坊主の私にしたら頭が一番寒いんです。今朝も「嫌だなぁ〜」と思いつつ鐘をついていたら、向こうに見える境内のモミジが少し色づいているのに気づきました。「紅葉の季節だなぁ」と、妙にしみじみとしてしまいました。
 考えてみると、モミジの一年もたいへんなものです。春、若葉が芽をだしてから、きれいな青に生い茂る頃、入梅が重なり必ず雨が降ります。夏は猛暑がしばらく続き、その後は台風がやってきます。大雨、大風、猛暑と、モミジにとって良い日ばかりではありません。苦労を一年続けてようやくあの素晴しい紅葉を染め出だすのですね。苦労を避けるのではなく、モミジはいつでもじっと我慢をしています。
 お釈迦様の教えの中に「大円鏡智(だいえんきょうち)」という智慧がございます。読んで字の如く、大きな円い鏡の智慧ということです。鏡は自分に映し出すものを、決して好き嫌いしませんよね。子供も大人もお年寄りも、男でも女でもありのままを映し出します。きれいな花も、汚いゴミも、差別なく映します。たとえ好きなものが目の前に来ても、わざとより一層きれいに映すことをせず、また目の前を去っても追いかけることをしません。嫌いなものが来ても、わざと余計に醜く映すことをせず、また自分から排除もしません。鏡は何でも素直にありのままを受け入れます。これがまた大きな円い鏡ですから、自分の許容範囲はものすごく広がるわけです。我々人間もこうでなくてはならないと、お釈迦様は示しておられるのです。
 頭ではよく理解できる教えですが、実行しようと思うと、これがなかなか難しいんです。食べ物の好き嫌いはあるし、人間関係にも好き嫌いがどうしてもあるんです。でもこれを表に出すか出さないかで、世の中は随分変わります。モミジは愚痴一つこぼさずに立っているから、余計に紅葉が美しく、見るものの心をきれいにしてくれるのではないでしょうか。

 

生椎茸と干椎茸  2005年10月24日更新

 最近、あるお宅でお嫁さんとお姑さんとの激しいバトルに出会いました。原因は単純で、お互いの誤解が招いた喧嘩でした。第三者の私は、どちらの意見も頷ける内容でしたが、双方積もり積もった鬱憤が爆発し、どうやら我慢の限界を越えてしまったようでした。
 このような話は、どこにでもある話でしょうが、当事者は一大事です。「もうこの家を出て行く!」という事態にまで発展してしまいました。
 これは困ったなと、あれこれ解決策を探っていたら、「椎茸」の話を思い出しました。椎茸には「生椎茸」と「干椎茸」があります。生椎茸は、とても柔軟で瑞々しく、焼いても揚げても本当においしく食べられます。塩や醤油の調味料は、あたかも若い女性が化粧をするが如く、自身をとても味わい深いものにします。一方、干椎茸は見るからに干からびて皺がより、かちこちに凝り固まっていて、まるで老婆の如くです。(お年を召した方、ごめんなさい。)しかし、見た目とは裏腹に、干椎茸はよく調理のダシに使われるとおり、自身が非常に味わい深いのです。生椎茸が調味料を使って醸し出すうまさとは違い、干椎茸は自身そのものに深い味わいがあります。
 お嫁さんとお姑さんの場合も同じだと思います。お嫁さんは若くて生き生きとしていて、仕事も早く、何にでも対応できます。お姑さんは、年を取っていて、昔のままの考え方で頑固ですが、豊富な経験と知識があります。その豊富な経験と知識が「生活の知恵」を生み出すのです。誰かが言ってました。「ボケられぬ
 しぼればまだ出る ババの知恵」本当にその通りだと思います。
 禅宗の言葉に「山雲海月の情(さんうんかいげつのじょう)」という言葉があります。山は山で美しく、雲は雲で美しいのですが、山にかかる雲、雲のかかった山はもっと美しい。海は海で美しく、月は月で美しいのですが、月の見える海、海面に浮かぶ月はもっと美しい、という意味ではないかと思います。お嫁さんとお姑さんの気持ちが一つになった時、「山雲海月の情」が現実世界になり、それはそれはとても美しい世界であります。 お互いが良いところをよく理解し、またお互いが我慢しあってできる世界です。
 同じ屋根の下で家を守ってくれているお嫁さんとお姑さん。どうか仲良く助けあって、一家の繁栄あらんことを願っています。

 

茶話!?  2005年10月6日更新

 皆様初めまして。このページでは私の勝手気ままな文章を皆様に読んでいただくわけですが、法話や説法を私ができるはずもなく、ただの茶飲み話程度だということを、まずご了解いただきたく思います。また、ご意見・ご感想などありましたら、「問い合わせ」からメールにてお気軽にお寄せ下さい。
 嘗て聖徳太子は、「彼是とすれば即ち我は非となし、我是とすれば即ち彼は非となす。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず。共に是凡夫のみ。」と申されました。たいへん有名な言葉ですね。意見の食い違いが生じることは、誰にでもよくあることです。一番身近なのは、夫婦の場合でしょうか。私も家内との喧嘩は絶えませんが、双方一歩も引き下がることをせず、ただ時間が過ぎていくのを待つだけです。原因はお互いに物を計る尺度が違うからです。男と女、坊主とその妻、父と母、という具合にお互いいろいろな顔を持っていて、自分にとってどうなのか?ということしか考えてないからです。相手にとってどうなのか?とは、なかなか考えられないですもんねぇ。
 夫婦以外にもこんな話があります。江戸時代の高僧・盤珪禅師は、嫁と姑の争いに出くわした時、双方からどちらが正しいか問われ、涼しい顔で「姑も昔は嫁にて候。嫁もやがては姑になるに候。」とお答えになったそうです。前述の聖徳太子の教えに通じるものがありますね。
 その聖徳太子が特に重要視した仏典に、勝鬘経・維摩経・法華経がありますが、その中の維摩経にこんな一節があります。「衆生病む故に、我もまた病む。衆生癒れば、我もまた癒ゆ。」(あなたが病めば、私も病むのです。あなたが癒されれば、私も癒されるのです。)この教えの中には、自分勝手な尺度の物差しはありません。相手様の尺度の物差しだけが、そこにはあります。自分の尺度の物差しも大切ですが、この人間社会には、相手様の尺度の物差しも大事に考えなければなりません。それが人の道、社会秩序につながると思います。
 よくお年寄りが、戦争中の日本人は皆しっかりしていて、社会秩序が非常に保たれていたと、話してくれます。よくわかります。でも、それは戦争をしていない今の日本人にもできることだと思います。自分の権利だけを主張するのではなく、先の維摩経の教えを少しづつ、皆が実践していけば良いのではないでしょうか。なかなか難しいことですが、私はまず、夫婦の間で試してみようと思います。(笑)
 という訳で、次回からはきちんとテーマを決めて寝言を綴りたいと思いますが、皆様のご助言をその都度お待ちしています。そのための茶話ですから。
 
 

 

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