温泉寺茶話

温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。

禅僧・ラルフ道人  2007年2月10日更新

 1月7日、一人の禅者がこの世を去りました。彼はドイツ人で「ラルフ・フースラーゲ」という名の居士です。自国で教職をしながら、日本で出家した方です。

 私は12年前、学生専用の禅堂で初めてラルフ師と出会いました。それは私にとってまさに衝撃的な出会いでした。当時はそんなに衝撃的な出会いだとは思いませんでしたが、私のその後の人生(修行過程)において大きな影響を与えたことは間違いありません。

 見かけはただのデカイおじさんです。やることも非常に自分勝手で、禅堂暮らしの中では一人だけ、とても気楽そうな感じがしました。まだ学生だった私達は、時間に追われ、規律に追われ、ヒーヒー言ってましたが、何の手助けもしてくれず、ただ一人自分のことだけをのんびりやるような方でした。「本当にドイツでは先生なのか?この人に教えられている子供はどんな生徒なんだろう?」と思ってしまうほど、お気楽な方でした。

 ただ、人に迷惑をかけるということは一切ありませんでしたし、とてもユニークで、人を笑わせるのが得意な方でした。ラルフ師のそばで怒っている人を見たことがありません。他人を誰でも分け隔てなく受け入れる姿勢は、見習うべき点だと当時から思っていました。

 そして何よりも道心の深さに感銘しました。坐禅や読経、作務(掃除)などという当たり前なことは勿論ですが、ラルフ師の素晴しいところは、禅堂内でもプライベートでも食事は質素、酒は少量、贅沢もせず、必要以上に物を求めず、ただあるがままを受け入れていたというところです。特に釈尊のおっしゃった戒律を、執着するように頑なに守っていたようなこともなく、戒律に従った生活が普通に、自然な感じでありました。だから少しも偉そうな態度も無く、自分を他人にアピールするようなこともありませんでした。それでいて自分の中には何でも受け入れることができる、まさに外に求めず、内に求める坐禅がそのまま師の生活スタイルだったのです。私が何度もドイツに訪れたり、何週間も日本で一緒に過ごした結果、最初に抱いていた自分勝手だというイメージは間違いで、実はありのままに満足し、何にでも同化していける禅特有の自由な境涯の持ち主だったと思います。自他不二の世界です。(ただ、何にでも同化しちゃうから、そばにいる人にとっては、やはり自分勝手だと思われますけど・・・。)

 そんなラルフ師の姿は、坊主の道を歩んだ私には、とても大きな存在でした。学生の立場から本格的な修行僧になって五年経っても、温泉寺に来てまた住職として五年経った今でも、相変わらずどころか益々煩悩は増えていくばかり。偉そうな態度、偉そうに見せる要領の良さ、不飲酒戒は破りっぱなし。でも、ラルフ師が本来の禅坊主の姿を私の目に焼き付けてくれたおかげで、今、自分が何とか禅坊主をさせていただいているのだと思います。

 このページの一番上の写真は、ラルフ師が亡くなる半年前に、私にくれた写真です。英語で書かれた手紙の内容を十分理解できませんでしたが、どうやら旅行の車窓から撮影したもののようです。今までたくさん写真をもらいましたが、この写真が一番好きです。広大な花畑にポツンと木が一本。とても大きな木ですが、威張っているような感じは全く無く、むしろ小さな花達と一緒に何か歌でも歌っているような感じがします。気取らず、飾らず、自然に花畑に溶け込んでいる巨大な一本の木は、何だか禅堂の学生の中に普通に溶け込んでいたラルフ師を彷彿とさせ、あるがままを受け入れる彼の人生を思わせ、同時に禅僧の在り方を教えてくれているようです。この写真をカメラに納めた時、間違いなく死を間近に感じていたと思いますが、果たしてラルフ師はどんな思いでこの光景を眺めていたのでしょう?その時の気持ちを察することはできませんが、形見だと思って部屋に暫く飾っておこうと思います。

 今はラルフ師の58年間の人生の一部を、少しでも一緒に過ごさせていただいたことにただ感謝しています。ご冥福をお祈りしています。

 

 

 

続・行く年来る年(反省文)  2007年1月15日更新

 皆様、明けましておめでとうございます。今年も懲りずにお付き合いいただきますよう、宜しくお願い申し上げます。

 新年を迎えてようやく落ち着いたと思ったら、あっという間に今日は小正月です(本当は旧暦の1月15日)。小正月には、一年の健康を願って「小豆粥」を食べる習慣がありますね。小正月に対して大正月の元旦の頃は、何かと正月行事で慌しく、本当に心から正月らしく落ち着いて過ごせるのが、意外に小正月だったりします。

 暮れから新年にかけて、今年の意気込みを前回の茶話でお話しましたが、言ったはいいものの、実行できるかどうか不安要素たっぷりの抱負でした。自信たっぷりの抱負なら、今年も1年力強く生きていけそうな気がしますが、そうではないのでたいへん気の重い年越しでした。しかしそんな私にとって、とても勇気づけてくれる本を、ある方が紹介してくれました。短いお話ですが、とても考えさせられるお話です。南米アンデス地方に伝わるお話だそうです。

  「ハチドリのひとしずく」 (監修・辻信一、光文社)

  森が燃えていました。

  森の生き物たちは、われ先にと
  逃げていきました。

  でもクリキンディという名の
  ハチドリだけは
  いったりきたり
  くちばしで 水のしずくを 
  一滴ずつ運んでは
  火の上に 落としていきます。

  動物たちが それを見て
  「そんなことをして
  いったい何になるんだ。」
  といって笑います。

  クリキンディは こう答えました。
  「私は 私にできることをしているだけ。」

  以上(注・ハチドリとは、中南米と北米に棲息する、体長10センチ前後の鳥)

 私は自分の中に、ある種「あきらめ」のような物を自分自身に感じていましたが、このハチドリに出会って、改めて気の引き締まる思いがしました。「自分が変わる」だなんて、到底無理。だから「子供が変わる」「明日が変わる」だなんて、なおさら無理。と決め付けていました。それはまるで、さっきのお話の中の、ハチドリを見て笑っていた動物たちの如きです。

 そうではなく、何でもいいから、自分のできることを少しずつ少しずつ、地道にやっていくことが大切なんだと、教えられました。「そんなことをしたって。」と笑われるようなことでもいいから、すごくスローペースでもいいから、これから生きていく子供達のために、自分ができることを精一杯やろうと思いました。

 江戸時代の高僧・白隠禅師の著書「毒語心経」に
「 徳雲の閑古錐 (とくうんの かんこすい)
 幾たびか妙峰頂を下る (いくたびか みょうぶちょうをくだる)
 他の痴聖人を傭って (たの ちせいじんを やとって)
 雪を担って共に井を塡む (ゆきをになって ともにせいをうずむ)」

という一節があります。徳雲というお坊さんは、使い古して先の丸まった錐のように、悟り臭くない本当の禅の境涯の持ち主で、妙峰山という山の頂に住んでいましたが、愚かなほどに正直な人を雇っては、二人でせっせと雪を運んで、井戸を埋めようとしていたというお話です。これも一見馬鹿らしく、無駄な行為そのものなのですが、少しでも少しでもと、ひたすら精進・努力する姿は、菩薩さんそのものです。

 南米アンデス地方の先人たちも、我が臨済宗の祖師も、共にあきらめず、何でもないようなことでも疎かにせずに、自分にできることを精一杯続けることの大切さを教えてくれています。

 だから私も、何年かかるか何十年かかるかわかりませんが、今、自分にできることを地道に続けていこうと思います。そのうちに、後になってそれが子供達の成長過程において、少しでも良い結果につながれば言うこと無しです。

 今年もご指導、ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。
 

 

 

行く年来る年(反省文)  2006年12月31日更新

 平成18年もいよいよあと数時間を残すのみとなりました。皆様にはご健勝にて新年をお迎えになられますことと存じます。

 私もようやく新年を迎える準備が整い、今こうして机の前に坐ることができました。ふと一年を振り返ると、いつも以上に今年は反省材料が多い感じがします。(詳しくは、以前の温泉寺茶話をご覧下さい。)12月に入ってどれだけ「忘年会」という名の飲み会に出席したかわかりませんが、折角今年という年を忘れる会なのに、その忘年会でまたしても新たな反省材料を作ってしまうわけですから、どうしようもありません。

 以前仕事で京都へ出かけました時に、たまたまある新聞を開いたら、そこに某中学校の女性の先生の投書が記事に紹介されていました。それは、卒業をあと半年後に控えた3年生のクラスで、道徳の時間に、残りの中学校生活を充実させるためにクラスの現状や課題について話し合い、「変わる」ということについて話し合ったという記事でした。ここで特筆すべきは、彼らは「変わる」対象を先ず第一に「自分」と捉えた点です。

〜以下新聞記事より〜
「自分が変われば○○が変わる。
○○が変われば○○が変わる。
○○が変われば○○が変わる。
○○が変われば○○が変わる。」

「しあわせ四変化」と名付けたプリントの○○の中に、子供達は次々と言葉を入れていった。自分が変わるだけで、「態度」が変わり「心」が変わる。「考え方」が変わり「行動」が変わり、「みんな」が変わり、「学校」や「世界」、「人生」や「夢」が変わる。
〜以上新聞記事の一節より〜

 自分が変わるだけで、巡り巡って「明日」が変わるというのが、そのクラス全員でまとめた結論だったそうです。何だか暗いニュースばかりが目につく新聞の紙面に、非常に明るい光をもたらしてくれた記事でした。

 この前向きな姿勢の源は、「変わる」対象を「自分」においている点にあると思います。同じ自分でも、「自分」を中心にして周りを変えようとか、相手を変えようとしてしまうのが私達人間の性です。誰だって自分の思いを主張したいし、周りから自分を認めてもらいたいものですよね。そこで自分の思うようにならない時、悲しい事件が起こります。そうではなく、「自分」が変わることによって「世界」が変わり、「明日」が変わるんだということを、この記事は改めて考えさせてくれました。要は自分の視点や視界が変わるということです。禅で言うところの「もう一人の自分に気づく」ということだと思います。立場や肩書きなどで着飾った自分ではなく、純粋な一人の人間としての自分です。その自分の中には好き嫌い、良い悪いといったものは一切ありません。ただあるがままに感謝していく自分があるのみです。

「自分というものがある。
あるがままで十分だ。」
        (アメリカ・ホイットマン)

 という訳で、年越しに際して私もこの「しあわせ四変化」というものを考えてみました。
「自分が変われば 生活態度が変わる。
生活態度が変われば 躾(しつけ)が変わる。
躾が変われば 子供が変わる。
子供が変われば 明日が変わる。」
という結果。普段、我が子を見ながら顔を覆いたくなる場面が多いので、どうにかして子供の人間性を変えなくては、などと思っていましたが、それには先ず自分が変わらなくてはなりませんでした。なるほど、横着・不精進・我侭など、子供を変えたいと思う部分は全て親の私自身に当てはまります。(痛っ!!)

 私の「しあわせ四変化」を実行することは、私にとってかなり至難の業です。しかし先程皆様に対して、偉そうなことを書いてしまった以上、少しは努力しなくてはと思います。平成19年は、少しでも「しあわせ四変化」に近づけたらと思う反面、気の重い年越しになりそうです。口では言えても、実行はかなり勇気がいりますもんねぇ。「自分」が変わるだなんて、坊主のくせになかなかできません・・・。

 だから今年も例によって、「除夜の鐘」でもって一年間の自分をチャラにしようと思います。また来年も自分なりに頑張ります。

 いろいろお世話になった方々へ、不義理をお許し下さい。年末のご挨拶に伺うのが本義ではございますが、当HP上にて失礼ながら、御礼申し上げます。また来年も、何卒宜しくお願い致します。ではどなた様も、良いお年をお迎えになりますように。



 

ライトアップ御礼  2006年12月11日更新

「ライトアップ実行委員会・委員長 並びに
醫王霊山温泉寺・総代、武川光雄氏より」
(温泉寺瓦版より)

 今年で4回目となる温泉寺境内の紅葉ライトアップが、11月22日から5日間開催されました。当初温暖な陽気で、色づきが遅れるのではと心配しましたが、直前の冷え込みで最高の色づきとなりました。

 昨年までは、電気の容量が少なく、満足な照明ができなかったのですが、今年より仮設電源の設置によりライトの増加も可能となり、本堂裏の参道にも照明をすることにより、より深みのあるライトアップができました。また、初日には恒例となりました細江鈴逸様と今井信二様による尺八の献笛・演奏、25日には南澤大介様のアコースティックギターによる演奏ですごく癒されることができました。特に南澤大介様は、ギターの教則本を出版されている程の実力の持ち主で、遠くは神戸からこの演奏を聴くために駆けつけた方もみえたほどでした。会場が狭く、立ち見の方もあり、非常にご迷惑をおかけしました。(コンサート来場者約350名)

 また5日間を通して抹茶の無料サービスや、今年新たに「お楽しみ抽選会」も実施し、徳原直政君の写真によるオリジナル切手も製作し、賞品として喜ばれました。その他いろいろ工夫をさせていただき、多少なりとも昨年より楽しんでいただけたのではないかと思います。

 昨年は会期中約600名の来場者でしたが、今年は1000名を越すことができました。地元は勿論、観光客の方にもたくさんご来場いただき、あまりイベントがない時期に、下呂温泉観光のお役に立てたのではと思っております。

 紅葉の苗木を寄贈いただいた徳原様・下呂市様、抹茶サービスに奉仕していただいた皆様、演奏をしていただいた皆様、その他数多くの皆様のお力添えにより、大盛況の内に終了させていただきましたことに感謝申し上げますとともに、心の癒し場として温泉寺をご利用下さりたくお願い申し上げます。来年度以降もより良きライトアップを企画致しますのでご期待下さるようお願い申し上げ、ライトアップ無事終了の御礼とさせていただきます。ありがとうございました。

 

18年度 紅葉ライトアップ  2006年11月14日更新

「人間に与える詩」

そこに太い根がある
これを忘れているからいけないのだ
腕のような枝をひっ裂き
葉っぱをふきちらし
頑丈な樹幹をへし曲げるような大風の時ですら
真っ暗な地べたの下で
ぐっと踏ん張っている根があると思えば
何でもないのだ
それでいいのだ
そこにこの壮麗がある
樹木をみろ
大木をみろ
このどっしりしたところはどうだ!
            (山村暮鳥)
目に見えないところで一生懸命頑張ってくれている、頑丈な根のおかげで、今年も温泉寺のモミジの大木は、きれいに色づいてきました。恒例ライトアップを今年も計画し、今まさに準備段階も佳境に入ってきました。
 今年で4回目を迎えますこの「紅葉ライトアップ」行事は、年々内容が充実し、また盛大になりつつあります。昨年は遠方からわざわざお越し下さる方もあり、今年もNHK始め、各メディアがこの行事をとりあげて下さっています。是非ともライトアップを成功させようと、願っていますが、これもひとえに惜しみない協力をして下さる方達のおかげです。
 この場合の協力というのは、経済的なものではなく、ほとんどが労働奉仕です。何度も何度も話し合いをして、今回だけのオリジナルサービスを企画し、ほとんどが手作りのものを使用し、ライトの設営、庭や建物内の演出も全て自分達の手によるものです。そのために、たくさんの方が何度もお寺へ足を運んで下さいます。宣伝についても、地元の市役所、観光協会始め、街の飲食店、お土産物屋さんなど、いろいろな方が好意的に対応して下さり、感謝しています。そして、ライトアップ期間中は、非常に寒い中を、駐車場係、案内係、抹茶席係など、たくさんの方の御奉仕をいただきます。そうして初めてこの「紅葉ライトアップ」は成り立っています。
 いろいろな形ではありますが、地元の皆さんの強力な支えがあるからこそ、この行事は年々盛大になっています。太い根っこの上に、惜しみなく枝を広げ、華麗に色づくモミジの如きです。
 そして、特筆すべきは、この行事に対して協力、奉仕して下さる方達は、皆さん何も見返りを求めていない、ということです。そのおかげで、期間中、入場無料でお客さんにお越しいただくことができます。この行事に携わる方達は、綺麗にライトアップされたモミジを見るお客さんに、立派な「布施行」をしておられるわけです。そして見に来て下さったお客さんは、この行事に対して少しずつでも、協賛金を布施して下さいます。更に、何よりモミジそのものが、私達人間に綺麗な紅葉を布施してくれています。それぞれの立場で、お互いに気持ちの良い布施をし合える場、これこそ「三輪清浄」の世界であり、本当の「癒し」の空間であると思います。これをお寺という場所で実践できることは、たいへん有意義なことだと思います。
 古代インドでは、サンスクリット語(古代インド語)でお寺を「ビハーラ」と呼びました。「ビハーラ」とは、「癒しの場」「安心な場所」という意味だそうです。そこにいる人たちは皆、何かに感謝しています。感謝するから、何でも人に施すことができます。そこに喜びを感じ、そこに自然に癒しの空間が広がります。
 今、特に殺伐とした世の中でありますが、温泉寺では年に一度、モミジのおかげを被り、ここに自然に「ビハーラ」が出現することを、住職として感謝しています。
(以前このようなことを話したら、「本当は住職の存在だけで、一年中、寺がビハーラでなきゃ駄目なんじゃないの?」と誰かにつっこまれました。残念ながら、温泉寺住職も今のところ、修行の履修科目が不足しているようです。)
 何はともあれ、年に一度、間違いなく温泉寺は「ビハーラ」になります。是非一人でも多くの方に足を運んでいただきたいと思います。「いいなぁ。」と素直に感じていただけたら、その時、まさにその心はお釈迦様の「仏心」そのものになっています。白隠禅師の「衆生本来仏なり。」であり、その場が「当処即ち蓮華国  この身即ち仏なり。」の世界であります。
 まだまだ改善の余地があり、皆様に喜んでもらえるには、一層の努力が必要でありますが、今年は今年できる限りのことを、地元の皆さんと用意しました。是非ご来場をお待ちしています。
 


 

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