温泉寺茶話

温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。

飛騨屋久兵衛物語  2013年3月11日更新

新年が明け、お正月行事が一息つくと2月には法人会計監査並びに決算報告、確定申告・・・。そんなことをしているうちに3月に入り、先日8日は地元・湯之島区恒例大祭「薬師祭」が今年もおかげさまで大盛況のうちに無事終わり、本日、東日本大震災から丸二年目を迎えました。改めまして被災物故者の方々のご冥福をお祈り致します。

 

被災地のライフラインは概ね復旧したとのことですが、「復興」という文字はまだまだ見えない状況だそうです。何より、人が快適に過ごせる環境でなければ、産業も元通りにはならず、復興の兆しが見えてこないと思うのです。そう考えますと、毎年行う恒例行事が当たり前のようにできるということが、いかにありがたいことか、改めて思い知らされるところです。

 

この世を生き抜くことの難しさを知らされ、そのために自分が何をすべきかを考え、自分にできることを静かに成し遂げた先人が下呂にみえます。それが4代目飛騨屋久兵衛益郷(下呂武川家7代目・武川久兵衛益郷〜ますさと〜)です。

 

もともと甲斐武田氏の家臣であった武川家は、下呂に移り住んで3代目の久右衛門倍良が、武田氏菩提寺の恵林寺ゆかりの剛山祖金禅師を開山に迎え、それまで湯嶋薬師堂と称したお薬師様の御堂を寛文11年(1671年)に、正式に臨済宗妙心寺派に属する温泉寺として開きました。

 

当時、下呂郷六ケ村の名主を務めていた武川家ですが、元禄5年(1692年)に飛騨国が幕府直轄領(天領)になると、幕府は山林保護のために木材の伐採を禁止しました。それまで林業で生計をたてていた人たちの生活は困窮し、名主であった武川家も年貢を代納したために経済的に逼迫しました。

 

4代目倍行は、元禄9年に江戸へ出て、新たな事業を模索しました。それが、藩に運上金を納めて山林を伐採し、製材、輸送、販売に至る伐採請負で、その事業の場として選んだのが遥か彼方の蝦夷地(北海道)でした。これは、江戸時代前期の遊行僧として知られる円空上人が元禄4年に温泉寺を訪れており、倍行は蝦夷地の情報をある程度、円空上人から得ていたのではないか・・・とする説もあります。

 

こうして倍行は元禄13年(1700年)に伐採請負業「飛騨屋」を創業し、自らを飛騨屋久兵衛と名乗り、南部藩(青森県)の許可を得て下北半島の大畑にて業務を開始しました。2年後の元禄15年(1702年)には北海道・松前へ進出し、ついに広大な蝦夷地での事業を始めました。しかし飛騨屋が請け負った山林は特に条件の厳しい僻地であり、それでも経営に工夫を凝らし、後には藩からの絶大な信頼を得ることとなり、飛騨屋2代目倍正・3代目倍安へと引き継がれ、いつしか松前藩から独占的に伐採請負の許可を得るほどの豪商になっていきました。更に下呂の本店を軸に、大畑や松前の他にも秋田・江戸・京都・大阪(堺)にも支店を持ち、北前船にて木材だけでなく、豊富な海産物などの流通も手掛ける大財閥へと発展しました。

 

しかし、3代目倍安の頃に支配人の多額の横領が発覚、更に松前藩がその元支配人と共に飛騨屋の伐採請負の乗っ取りを画策し始め、運上金の増額を迫りました。ついにその圧力に耐えかね、倍安は伐採請負から撤退し、安永2年(1773年)に松前藩に貸し付けていた8000両を放棄する代わりに、アイヌと交易できる場所請負の権利を得ました。

 

しかし南下政策をとるロシアとの遭遇や、文化の違うアイヌとの交易に、場所請負の事業は困難なものでした。更に再び元支配人が飛騨屋に対して乗っ取りを画策し、倍安は幕府に対し、元支配人と松前藩を公訴。当然勝訴しますが、松前藩との関係は悪化し、4代目益郷に飛騨屋を譲ります。

 

しかしながら度重なる船の難破や、幕府のロシア政策、クナシリ・メナシの騒動などでアイヌを含む多くの犠牲者を出してしまい、寛政3年(1791年)、ついに益郷は蝦夷地を撤退、4代91年間に及ぶ豪商・飛騨屋のドラマは幕を閉じます。

 

その後、益郷は下呂へ帰郷し、名主を務めながら官材伐採の請願が幕府に認められ、寛政11年(1799年)には官材輸送を請け負いました。地道な事業努力により益郷は蝦夷地を撤退してから33年後、文政7年(1824年)についに飛騨屋の負債8200両とその利子など4003両の、合計12203両にものぼる負債を完済しました。

 

更に益郷は蝦夷地やアイヌ、ロシアに関する多くの記録を残しています。特に著書の「北信記聞」には、アイヌの生活・文化や、ロシアの使節「ラクスマン」の来航、漂流民「大黒屋光太夫」の返還などが記され、当時の北方事情を詳細に伝える貴重な文献となっています。

 

栄華と衰退の両方を知る益郷は、その陰に失われた多くの人命に対し、供養も怠りませんでした。父親である3代目倍安と共に、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師や、弟子の東嶺禅師に深く帰依し、松前・大畑をはじめ静岡県三島市「龍沢寺」や、京都・紫野「大徳寺」などに供養の跡が残されています。

 

下呂・温泉寺境内にも3代目倍安による略法華経15万部・般若心経1万部の供養塔(明和2年・1765年)や、4代目益郷建立の地蔵堂(文政4年・1821年)が残っています。

 

ただ、ただ、祈ること。昔も今も、人の心は変わってはいないと思います。

文政4年(1821年)4代目益郷建立の地蔵堂

 明和2年(1765年)3代目倍安建立 供養塔(略法華経15万部)

岐阜県指定史跡 飛騨屋久兵衛 歴代墓

平成25年3月8日 恒例湯之島区 薬師祭

 


 

感謝!  2012年12月7日更新

旧飛騨屋邸地蔵堂〜文政4年〜修復落慶

平成24年10月24日、200年前の遺構、4代目飛騨屋久兵衛益郷建立の地蔵堂を修復致しました。ご協力賜りました皆様方に感謝申し上げます。

尚、飛騨屋久兵衛については、改めてご紹介させていただきます。

「千代観音像」 

平成24年8月、下呂温泉水明館社長ご夫妻が、ご母堂様・故、瀧千代子様を偲んで温泉寺境内に建立。遠く水明館を臨む見晴らしの良い場所に、癒しスポットがまた1つ増えました。

 

平成24年もあとわずかとなりました。下半期も先住職1周忌、地蔵堂修復事業、紅葉ライトアップと、それぞれ皆様方にはお世話になりました。

一々ご挨拶させていただくのが本意ですが、略儀ながら衷心より御礼申し上げます。

また来年もよろしくお願い致します。

たくさんの方が写経を納めて下さいました。

年末年始もやってます。どなたでもご自由にどうぞ!

 


 

見どころは紅葉だけではありません!  2012年11月19日更新

 本堂の迎え花(山下真理子様)

 本堂への渡り廊下

 渡り廊下から見る中庭の紅葉

 書院、小原和紙工芸(熊崎英和氏)

 中書院、押花絵ギャラリー(押花アトリエ花遊びの会様)

 書院、絵手紙ギャラリー(四季の会様)

 

誰にでもできる、 ホッとひといき「十分間写経」

出展者の皆さま、ご協力ありがとうございます。

25日まで宜しくお願い致します!!


 

見ごろの紅葉と足湯、25日まで!  2012年11月18日更新

 見ごろを迎えた紅葉と、特設もみじ足湯。

 

 


 

雲を耕し、月に種まく  2012年7月1日更新

舞妓さん(左・菊乃さん、右・雛乃さん)

去る6月24日(日)は、恒例「檀信徒の集い」という言わば温泉寺の檀家総会でした。「檀家」と言わずに「檀信徒」と表現しているのは、このお寺が一般的に「檀家」と位置づけられている方ばかりでなく、その枠を超えた多くの地域の皆さまに支えられて成り立っているからです。ですからご自分の家の菩提寺の他、温泉寺に対してもご協力下さっている方が多くおみえになり、温泉寺の檀家さんは勿論のこと、そういった言わば信者さんに対しても1年に1度、感謝の意味も込めて、各種決算報告と共に一献やりましょう!という集いが「檀信徒の集い」です。

 

今年は4月にデビューした舞妓さんと、そのお姉さんにあたる芸妓さんをお招きし、本堂で初々しい舞いを披露していただきました。「お寺」と「舞妓さん」の組み合わせも温泉地独特の風情で、どなたも文句をおっしゃいません。それどころか、当日いらした方の中には、

「昔は何かあるとみんなが寺に寄って、境内で花見をしたり、お祭りしたり、その度に芸妓衆が踊って舞って、楽しかったよ。」

と言って下さる方もありました。温泉寺を通称「芸者寺」と呼んだ時期もあったとか・・・。とにかくそれを証明する写真(昭和5年前後)も何枚か残っていて、日本人の心の故郷ともいえるような素朴な光景を、後世にも残していきたいという役員さん達の粋な計らいで、今回の「檀信徒の集い」が実現しました。

 

ところで話は一変しますが、この春、真田幸村公ゆかりの地、信州上田市真田町にある「耕雲寺」というお寺さんへお邪魔させていただきました。正式には「種月山耕雲寺」とおっしゃるそうで、ご住職からその山号寺名の由来となった「耕雲種月」という禪語について、教えていただきました。

 

「耕雲種月」を、「雲を耕し、月に種まく」と読むと解り易いと思います。雲を耕すということ、月に種をまくということ、一体何を示す言葉でしょう?

解釈は勿論いろいろあると思いますが、雲を耕すことも月に種をまくことも、実際には不可能であり、たとえ実現したとしても何の実りも無い、つまり無駄なことであります。おかげさまで私たちの住む世界には、太陽があり、土があり、文字通り天地の恵みにより生かされています。だから雲を耕すことも月に種まくことも、余分なことで、全く必要ありません。

 

ところが私たち日本人は、一見無駄にみえるようなことを、とても大切にしてきました。その代表的なことが「信仰」だと思います。天を敬い、人を愛すことです。これが心の根底にあるからこそ、人が集い、お祭りもできて、とても温かい気持ちになれるのです。更にこの心の豊かさを、後世に伝えていくことができるのだと思います。

 

このデジタルな世の中に神社仏閣が未だ存在できていることも、「耕雲種月」の心がまだ私たち日本人の心の中に存在しているからだと思います。逆に言えば、ネット通信がチャットやフェイスブックなどで更に便利になった現在だからこそ、「耕雲種月」の心を大切に忘れないでいたいと思うのです。

 

これと同義にあたる言葉で「雪を担って共に井を埋む」という禪語もあります。「井戸を埋めるために、せっせと雪を運び入れる」というんですね。いくら雪を運び入れても、井戸を埋めるという目的は達成されないでしょう。しかしながら、無駄だと思えるような努力でも、コツコツと諦めずに続けていくことが大切なのだ!という先人からの叱咤激励の言葉だと解釈しています。(特に修行の身であるはずの私には辛い言葉ですが・・・)

 

何にせよ上田の耕雲寺様のおかげで、また1つ、心の豊かさを与えていただきました。今回の「檀信徒の集い」では何時になく懇親会が盛り上がり、男性女性問わずゆっくりと時を過ごせた感があります。ありがとうございました。


 

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