温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。
こんにちは。たいへん久しぶりの更新です。実は去る5月にパソコンの調子が悪くなり、初期化したところ、更新画面のパスワードが消えてしまい、以来当HPをかまえずにおりました。全くドンくさい話です。
毎月楽しみにして下さっていた大阪の方、お元気ですか?奇しくも更新できるようになった今日が、確か貴方の誕生日です。おめでとうございます。我が禅寺においては初祖とされる達磨さんの命日ということで、10月5日の誕生日をよく覚えています。
という訳で、本日は簡単に達磨さんを紹介します。よく願掛けやお祝いの場に登場するダルマさんですが、この方は実在の方で、お釈迦様から数えて28代目、インドから中国に禅を伝えられた方です。少林寺拳法でお馴染みの、中国は嵩山・少林寺で9年間、ひたすら坐禅に没頭された方です。
この達磨さん。インドから艱難辛苦の船旅で、ようやく中国(広州)へ上陸なさった時に、面白いエピソードがございます。
当時、中国には梁という国があり、そこにたいへんな仏教信者の武帝という王様がいました。とにかく仏の教えを守り、また勉強して、僧侶を厚く敬い、お寺も数多く建立しました。国民にも非常な慈悲心で接し、信頼も厚く、皆からは仏心天子と呼ばれておりました。
中国に上陸した達磨さんは、早速この武帝に招かれました。武帝はインドの高僧達磨さんに尋ねます。
「私は、こんなに仏の教えを守り、この国をついに仏教国にしたが、果たしてどれぐらいの功徳があるでしょうか?」
達磨さん。「無功徳!」
思わず耳を疑った武帝は続けて尋ねます。
「でも、僧侶を大切にして、施しもしているし、お寺も随分建立しました。それでも功徳は無いのですか?」
達磨さん。「無功徳!」
さすがに腹を立てた武帝は更に尋ねます。
「では、仏教の根本の教えは何か!」
達磨さん。「廓然無聖!(からっと晴れた空みたいなものだ)」
すっかり訳のわからなくなった武帝は最後に尋ねます。
「私の目の前にいる貴方はいったい誰だ?」
達磨さん。「不識!(知らん)」
武帝はとうとう達磨さんとの問答を諦めてしまいます。この後、達磨さんは嵩山に向かい、少林寺で9年間、じっと坐禅三昧に入られました。
さて、私が達磨さんだったらどうしていたでしょう。素晴らしい高僧であるという前評判で、武帝に招かれていたら・・・。きっと武帝の質問に対して、武帝を持ち上げるような返答をして、(絶対に無功徳なんて言いません・・・。)武帝に気を使いながらお話して、地位と名誉を得たに違いありません。
いちいち説明しなくても、達磨さんの境涯をおわかりいただけると思います。「あーしてやった、こーしてやった。」などという恩着せがましい親切は、本当の親切ではないし、もともと達磨さんの心中は、言葉通り、からっとした秋空のようなもので、地位だの名誉だの、仏教ですらこだわらない方であったと推測します。でなければ、少林寺に9年も篭もったりしませんよね。
少林寺に篭もった達磨さんは、中国僧に変人扱いされていましたが、ひたすら壁に向かって坐禅している、その微動だにしない背中を見て、だんだん尊敬される存在となっていきました。華やかに世へ出ることはついにありませんでしたが、その法灯は現在日本にまで続いています。当時の中国では、達磨さんのように、体験で以って心を養うことより、経文や戒律の研究を重要とする教相家・律僧のほうが世の中では主流であったため、達磨さんはそれらの人達から恨みを受け、毒殺されてしまいます。
しかし、先ほどの梁の武帝は、晩年、達磨さんの本心を悟り、再度面会を望みました。残念なことに、達磨さんは既に亡くなっており、その願いは叶わなかったそうです。
何物にもとらわれず、こだわらず、というのは難しいですね。「こだわるな!」という言葉についついこだわってしまいそうです。スカッと、カラッとした秋空。どんな雲でも受け入れ、来ても良し、去っても良し。風が吹いても、雨が降っても、隠れているだけで、いつでもその正体は青空です。私達の心の中も、本来は青空であるというのが、達磨さんの禅であります。
「眼にて云う」 宮沢賢治
だめでしょう。
とまりませんな。
がぶがぶ湧いているのですからな。
ゆうべからねむらず血も
出続けるもんですから。
そこらは青く しんしんとして
どうも間もなく死にそうです。
けれどもなんと いい風でしょう。
中略
あなたの方から見たら ずいぶん
さんたんたる景色でしょうが、
わたくしから 見えるのは
やっぱりきれいな青空と
透き通った風ばかりです。
本日4月17日、予想通り温泉寺の桜が散り始めました。春の慶びを一番感じさせてくれる桜。今年から地元有志の皆さんと、温泉寺石段下の地蔵堂の桜をライトアップして、地元の皆さんをはじめ、観光客の皆さんにも愛でていただき、また自分自身もそのおかげでおいしいお酒を2回味わいました。特別何か催しをすることもありませんでしたが、ただ桜を目の前にしていただく一杯は、非常に幸せな気分にしてくれました。
その桜の花とも、来年までお別れです。何だか寂しい気持ちになります。こんな時、良寛和尚の辞世の句を思い出します。
形見とて 何を残さん 春は花
夏ほととぎす 秋はもみじ葉
形見など、何を残すというのだ。例えば春に咲く花。夏のホトトギス、秋の紅葉。更にそれ以外の動植物たちの命そのものと、私の命と寸分違わない。その場その場に生きているものが、常に私自身なんだよ。
という感じでしょうか。寂しそうな句の中に、非常に大きな生命のエネルギーが隠されています。「万物と我と同根」そして「一如」「自他不二」の世界であります。私の故郷・出雲が生んだ陶芸家の一人、河井寛次郎さんは「花をみている。花もみている。」と表現されました。自分が花になり、花が自分になるという世界です。
先日、近所の小学生が私に質問しました。
「人を殺すことは悪いことだけど、アリを殺すことはどうなの?いいの?悪いの?」
と。確かに人を殺すことはたいへんな重罪です。当たり前です。しかし私達に直接危害すら与えないアリを1匹、殺すことはどうなのか?それをいきなり聞かれて、びっくりしましたが、その子は非常にいい質問をしてくれたと思います。アリを殺すことは、人間社会における勝手な法律の中では処罰されませんが、この宇宙全体の生命の営みの中ではどうなのか?という部分を充分感じてくれているのです。私はとりあえず、
「小さな体で一生懸命働いているアリを、訳もなく殺すことは良くないんじゃないかい?」
と、答えました。するとまた質問。
「じゃあ、人間を刺す蚊はどうなの?ハエは?」
こうなると、人間の身勝手さを聞かせるしかありません。私はまたもやとりあえず外村繁さん(とのむら しげる)さんの話を、うる覚えでしたが聞かせました。
外村さんは近江商人の三男として生まれました。中学時代、叔父さんの家に下宿をしていたのですが、そのかわり、毎朝カエルをたくさん捕まえてくることを命じられました。叔父さんはヘビが大好きで、飼っているヘビに外村さんが捕まえてきたカエルを毎朝食べさせるのです。外村さんは、カエルが可哀想で仕方なく、カエルをヘビに与えることをやめるよう叔父さんに懇願しました。すると叔父さんが答えます。
「お前だって動物の肉や魚を食べているではないか。ヘビだってカエルを食べなきゃ死んでしまうんだぞ。」
と。そこで外村さんは、肉や魚を食べるのをやめると誓いました。するとまた叔父さんが答えます。
「お前は肉や魚にしか命が無いと思っているだろうが、お前が食べる米や野菜にでも皆、平等に命があるんだぞ。」
と。当時外村さんは、その言葉が叔父さんの屁理屈だと、暫く反抗したそうですが、後になって考えてみると、全くその通りだと納得されたとのことです。
他の命をいたわる優しい心と、それと全く同じ命を持つものを食べなければ生きていけない現実との葛藤です。私に質問してくれた小学生も、同じ葛藤をしていると思いました。
私達は勝手に、可愛いもの・可愛くないもの。食べるもの・食べないもの。見るもの・見ないもの。好きなもの・嫌いなもの。綺麗なもの・汚いもの。などと区別して生きています。ですが、この目に見える全てのものは、皆同じ命を共有しているものであります。そしてかなりの数の命を犠牲にして、私達は生きていけるのです。数限りない命の犠牲の上に、私達の命の保証がある訳ですから、生かされているという表現の方がいいですよね。全てのものに対して、感謝せずにはいられなくなります。
そうなると、今度はいろいろな命に対して、惜しみなく自分自身を投げ出すことができます。これが愛情=慈悲であり、そのものになりきる一如の世界が広がるのではないでしょうか?良寛さんが春の花、夏のほととぎす、秋のもみじが自分自身であるとおっしゃった世界です。
今回はかなり理屈っぽくなりました。そしてクドイ文章になりました。ここだけの話ですが、このページは更新するたびに、一応家内に読んでもらって、読みやすいかどうか指摘してもらいます。私はまだまだ書き足したい気持ちもありますが、このあたりでやめておかないと、家内にこの文章を却下されますので、これで終わりにします。
あ、それでさっきの小学生の蚊やハエの場合の質問の答え。まだ言ってませんでした。
「とりあえず『ごめんなさい』と言って叩くしかないね。」
と、私は答えました。他にもっと良い答え方があれば、教えて下さい。合掌。
ハエ一つ 打っては南無阿弥陀仏かな
(小林一茶)
今月末で、温泉寺に来てまる五年が経ちます。その間、地元の皆さんの支えのおかげで逃げ出しもせずに居れたことは、言うまでもありません。感謝しています。
学生時代を含め、足掛け九年いた京都時代に最もお世話になった妙心寺天授院の老師には、「ここにいた時間の倍の時間は、我慢せよ。」などと言われて下呂に送り込まれたわけですが、我慢どころか、あたかも以前から下呂にいたような図々しい自分の態度を反省しています。
寄り道とお酒を好んだ風来坊・種田山頭火は、私の尊敬する僧侶の一人ですが、(尊敬できない部分もありますが・・・)最も尊敬する点は、いつでも人間的な純粋さを忘れなかったという点です。とりあえず表向きだけでも「一般的な坊主」を演出していれば、檀家制度の上に生活を保障された寺の住職として安穏と暮らせたはずなのに、どうしても自分の本心に嘘がつけず、放浪するしかない羽目になりました。家も金も食べる物も何も無い、そんなその日暮の中、絶対に手放さなかった物は、母親の位牌だったそうです。何だか忘れていたことを、思い出させてくれるような気がします。
世の中で一番かわいいと思っている「自分」が、実は一番情けないものであると悟ったがために、心の中でもがき苦しんだ山頭火が出した結論は、
「道は前にある。まっすぐに行こう。」
という答えでした。
私も寄り道が大好きな人間ですが、自分が進むべき方向を忘れずに進みたいと思います。たまに方向を見失う場合もありますので、その都度ご注意いただきたいと存じます。今後とも温泉寺護持のため、ご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。
1月7日、一人の禅者がこの世を去りました。彼はドイツ人で「ラルフ・フースラーゲ」という名の居士です。自国で教職をしながら、日本で出家した方です。
私は12年前、学生専用の禅堂で初めてラルフ師と出会いました。それは私にとってまさに衝撃的な出会いでした。当時はそんなに衝撃的な出会いだとは思いませんでしたが、私のその後の人生(修行過程)において大きな影響を与えたことは間違いありません。
見かけはただのデカイおじさんです。やることも非常に自分勝手で、禅堂暮らしの中では一人だけ、とても気楽そうな感じがしました。まだ学生だった私達は、時間に追われ、規律に追われ、ヒーヒー言ってましたが、何の手助けもしてくれず、ただ一人自分のことだけをのんびりやるような方でした。「本当にドイツでは先生なのか?この人に教えられている子供はどんな生徒なんだろう?」と思ってしまうほど、お気楽な方でした。
ただ、人に迷惑をかけるということは一切ありませんでしたし、とてもユニークで、人を笑わせるのが得意な方でした。ラルフ師のそばで怒っている人を見たことがありません。他人を誰でも分け隔てなく受け入れる姿勢は、見習うべき点だと当時から思っていました。
そして何よりも道心の深さに感銘しました。坐禅や読経、作務(掃除)などという当たり前なことは勿論ですが、ラルフ師の素晴しいところは、禅堂内でもプライベートでも食事は質素、酒は少量、贅沢もせず、必要以上に物を求めず、ただあるがままを受け入れていたというところです。特に釈尊のおっしゃった戒律を、執着するように頑なに守っていたようなこともなく、戒律に従った生活が普通に、自然な感じでありました。だから少しも偉そうな態度も無く、自分を他人にアピールするようなこともありませんでした。それでいて自分の中には何でも受け入れることができる、まさに外に求めず、内に求める坐禅がそのまま師の生活スタイルだったのです。私が何度もドイツに訪れたり、何週間も日本で一緒に過ごした結果、最初に抱いていた自分勝手だというイメージは間違いで、実はありのままに満足し、何にでも同化していける禅特有の自由な境涯の持ち主だったと思います。自他不二の世界です。(ただ、何にでも同化しちゃうから、そばにいる人にとっては、やはり自分勝手だと思われますけど・・・。)
そんなラルフ師の姿は、坊主の道を歩んだ私には、とても大きな存在でした。学生の立場から本格的な修行僧になって五年経っても、温泉寺に来てまた住職として五年経った今でも、相変わらずどころか益々煩悩は増えていくばかり。偉そうな態度、偉そうに見せる要領の良さ、不飲酒戒は破りっぱなし。でも、ラルフ師が本来の禅坊主の姿を私の目に焼き付けてくれたおかげで、今、自分が何とか禅坊主をさせていただいているのだと思います。
このページの一番上の写真は、ラルフ師が亡くなる半年前に、私にくれた写真です。英語で書かれた手紙の内容を十分理解できませんでしたが、どうやら旅行の車窓から撮影したもののようです。今までたくさん写真をもらいましたが、この写真が一番好きです。広大な花畑にポツンと木が一本。とても大きな木ですが、威張っているような感じは全く無く、むしろ小さな花達と一緒に何か歌でも歌っているような感じがします。気取らず、飾らず、自然に花畑に溶け込んでいる巨大な一本の木は、何だか禅堂の学生の中に普通に溶け込んでいたラルフ師を彷彿とさせ、あるがままを受け入れる彼の人生を思わせ、同時に禅僧の在り方を教えてくれているようです。この写真をカメラに納めた時、間違いなく死を間近に感じていたと思いますが、果たしてラルフ師はどんな思いでこの光景を眺めていたのでしょう?その時の気持ちを察することはできませんが、形見だと思って部屋に暫く飾っておこうと思います。
今はラルフ師の58年間の人生の一部を、少しでも一緒に過ごさせていただいたことにただ感謝しています。ご冥福をお祈りしています。
皆様、明けましておめでとうございます。今年も懲りずにお付き合いいただきますよう、宜しくお願い申し上げます。
新年を迎えてようやく落ち着いたと思ったら、あっという間に今日は小正月です(本当は旧暦の1月15日)。小正月には、一年の健康を願って「小豆粥」を食べる習慣がありますね。小正月に対して大正月の元旦の頃は、何かと正月行事で慌しく、本当に心から正月らしく落ち着いて過ごせるのが、意外に小正月だったりします。
暮れから新年にかけて、今年の意気込みを前回の茶話でお話しましたが、言ったはいいものの、実行できるかどうか不安要素たっぷりの抱負でした。自信たっぷりの抱負なら、今年も1年力強く生きていけそうな気がしますが、そうではないのでたいへん気の重い年越しでした。しかしそんな私にとって、とても勇気づけてくれる本を、ある方が紹介してくれました。短いお話ですが、とても考えさせられるお話です。南米アンデス地方に伝わるお話だそうです。
「ハチドリのひとしずく」 (監修・辻信一、光文社)
森が燃えていました。
森の生き物たちは、われ先にと
逃げていきました。
でもクリキンディという名の
ハチドリだけは
いったりきたり
くちばしで 水のしずくを
一滴ずつ運んでは
火の上に 落としていきます。
動物たちが それを見て
「そんなことをして
いったい何になるんだ。」
といって笑います。
クリキンディは こう答えました。
「私は 私にできることをしているだけ。」
以上(注・ハチドリとは、中南米と北米に棲息する、体長10センチ前後の鳥)
私は自分の中に、ある種「あきらめ」のような物を自分自身に感じていましたが、このハチドリに出会って、改めて気の引き締まる思いがしました。「自分が変わる」だなんて、到底無理。だから「子供が変わる」「明日が変わる」だなんて、なおさら無理。と決め付けていました。それはまるで、さっきのお話の中の、ハチドリを見て笑っていた動物たちの如きです。
そうではなく、何でもいいから、自分のできることを少しずつ少しずつ、地道にやっていくことが大切なんだと、教えられました。「そんなことをしたって。」と笑われるようなことでもいいから、すごくスローペースでもいいから、これから生きていく子供達のために、自分ができることを精一杯やろうと思いました。
江戸時代の高僧・白隠禅師の著書「毒語心経」に
「 徳雲の閑古錐 (とくうんの かんこすい)
幾たびか妙峰頂を下る (いくたびか みょうぶちょうをくだる)
他の痴聖人を傭って (たの ちせいじんを やとって)
雪を担って共に井を塡む (ゆきをになって ともにせいをうずむ)」
という一節があります。徳雲というお坊さんは、使い古して先の丸まった錐のように、悟り臭くない本当の禅の境涯の持ち主で、妙峰山という山の頂に住んでいましたが、愚かなほどに正直な人を雇っては、二人でせっせと雪を運んで、井戸を埋めようとしていたというお話です。これも一見馬鹿らしく、無駄な行為そのものなのですが、少しでも少しでもと、ひたすら精進・努力する姿は、菩薩さんそのものです。
南米アンデス地方の先人たちも、我が臨済宗の祖師も、共にあきらめず、何でもないようなことでも疎かにせずに、自分にできることを精一杯続けることの大切さを教えてくれています。
だから私も、何年かかるか何十年かかるかわかりませんが、今、自分にできることを地道に続けていこうと思います。そのうちに、後になってそれが子供達の成長過程において、少しでも良い結果につながれば言うこと無しです。
今年もご指導、ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。