温泉寺茶話

温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。

茶話!?  2005年10月6日更新

 皆様初めまして。このページでは私の勝手気ままな文章を皆様に読んでいただくわけですが、法話や説法を私ができるはずもなく、ただの茶飲み話程度だということを、まずご了解いただきたく思います。また、ご意見・ご感想などありましたら、「問い合わせ」からメールにてお気軽にお寄せ下さい。
 嘗て聖徳太子は、「彼是とすれば即ち我は非となし、我是とすれば即ち彼は非となす。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず。共に是凡夫のみ。」と申されました。たいへん有名な言葉ですね。意見の食い違いが生じることは、誰にでもよくあることです。一番身近なのは、夫婦の場合でしょうか。私も家内との喧嘩は絶えませんが、双方一歩も引き下がることをせず、ただ時間が過ぎていくのを待つだけです。原因はお互いに物を計る尺度が違うからです。男と女、坊主とその妻、父と母、という具合にお互いいろいろな顔を持っていて、自分にとってどうなのか?ということしか考えてないからです。相手にとってどうなのか?とは、なかなか考えられないですもんねぇ。
 夫婦以外にもこんな話があります。江戸時代の高僧・盤珪禅師は、嫁と姑の争いに出くわした時、双方からどちらが正しいか問われ、涼しい顔で「姑も昔は嫁にて候。嫁もやがては姑になるに候。」とお答えになったそうです。前述の聖徳太子の教えに通じるものがありますね。
 その聖徳太子が特に重要視した仏典に、勝鬘経・維摩経・法華経がありますが、その中の維摩経にこんな一節があります。「衆生病む故に、我もまた病む。衆生癒れば、我もまた癒ゆ。」(あなたが病めば、私も病むのです。あなたが癒されれば、私も癒されるのです。)この教えの中には、自分勝手な尺度の物差しはありません。相手様の尺度の物差しだけが、そこにはあります。自分の尺度の物差しも大切ですが、この人間社会には、相手様の尺度の物差しも大事に考えなければなりません。それが人の道、社会秩序につながると思います。
 よくお年寄りが、戦争中の日本人は皆しっかりしていて、社会秩序が非常に保たれていたと、話してくれます。よくわかります。でも、それは戦争をしていない今の日本人にもできることだと思います。自分の権利だけを主張するのではなく、先の維摩経の教えを少しづつ、皆が実践していけば良いのではないでしょうか。なかなか難しいことですが、私はまず、夫婦の間で試してみようと思います。(笑)
 という訳で、次回からはきちんとテーマを決めて寝言を綴りたいと思いますが、皆様のご助言をその都度お待ちしています。そのための茶話ですから。
 
 

 

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