温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。
(被災物故者百ケ日法要)
(下呂温泉から避難所へ温泉が届けられました)
先般、6月19日(日)は温泉寺の檀信徒総会でした。通称「檀信徒の集い」とよんでおりますが、6年前より会計報告や意見交換の場として、また余興や懇親の場として毎年開催しています。要するに、寺と檀信徒の皆さんとの距離をできるだけ近づけていこうという役員さん達のねらいです。
あまり堅苦しくないように気軽に参加していただけるよう、去年は下呂温泉の誇るべき文化の1つ、湯の花芸妓衆の舞を本堂にて奉納いただきましたし、一昨年はコンサートを開催しました。
さて、今年はどうしようか?と考えておりましたら、役員さんから素晴らしい提案をいただきました。「東北にこだわろう!」と。
実は温泉寺の石段を降りたところにお住まいのお宅に嫁いできておられる奥さまは、岩手県陸前高田市の方で、実家や家族を津波で亡くされています。また、そのすぐ先の薬局の御主人は、福島県郡山市の方で、やはりご実家は地震による被害に遭われ、今は原発問題に揺れておられるらしいのです。お二人とも温泉寺と同じ町内にみえる方なので、やはり遠い東北地方の話ではなく、とても深刻な悩み、突然の悲劇による深い心の傷は、すぐ身近なところにあるんだと改めて感じます。
奇しくも6月19日という日は震災からちょうど100日目ということもあり、被災物故者の追悼をさせていただくことになりました。そして懇親会は自粛すべきところかも知れませんが、敢えて東北地方の材料を使って行いました。(酒10升東北各地のもの、岩手産ひとめぼれのおにぎり、秋田産ハタハタの炭火焼、宮城産笹かまぼこ、仙台味噌の味噌汁、お茶菓子は福島県郡山市のお饅頭・・・など)たった60名分ですが、約150匹のハタハタの炭火焼は圧巻でした。
呑むことばかり考えていた訳ではありませんが、みんなで東北を想って焼香して、被災地の写真を見て、現地へ温泉を運んだ配湯ボランティアの方のお話を聞いて、東北の魚の匂いをかぎ、それを賞味する。まさに五官をフル回転させて東北を感じた檀信徒の集いとなりました。被災なさった方々にとりましては、あまりにも軽率な発想で、ご無礼なことかと存じますが、参加者は私を含め、改めて命そのものを考える機会になりました。
6月10日の新聞に、花谷清さんという方の俳句が紹介されていました。
青くるみ 死者は生者の 内にのみ
この句に長谷川櫂さんがこのようなことを綴っておられます。
死者とは肉体を失った人。その死者は生者の記憶のなかにしか存在しないというのだ。この句を読んで今回の大震災で亡くなった多くの人々を思った。家族ごと亡くなった人を誰が記憶にとどめるか。肉体を失うことは、かくも切ない。
本当にその通りだと思います。仏教哲学では、本来存在しないものが仮に肉体となって出現しているだけで、死もなく生もなく、善もなく悪もなく、喜もなく憂いもない・・・(浅学故に甚だ浅はかな解釈ですが)表面的にはこのような具合ではないかと思います。しかし実は、この世に生れてきた以上、自分の死とどう向き合うか、或いは他人の死に対してはどう向き合うか、ということを問いかけているのではないかと思うのです。
他の死に対する追憶の念、追悼の念、要するに「忘れない!」ということが、「当たり前に命あることのありがたさ」を感じさせてくれ、生きる喜びを感じさせてくれる。これが命を寿ぐことであり、やがてやってくる自分の死に対して素直に向き合うことができる大切な要素ではないかと思います。
青くるみ 死者は生者の 内にのみ
今一度、このたびの大震災にて命を失われた方々のご冥福をお祈りし、被災なさった方々に対しまして心よりお見舞い申し上げます。
(気仙沼市・地福寺様にて)
(禅興寺青壮年部会長様にいただいたシラネアオイ。
震災を忘れぬよう、目立つ所に移植しました。)
東日本大震災から早くも2ケ月以上が経ちました。
ちょうど2ケ月目を迎える頃、5月9日・10日・11日と、東北地方へ赴くチャンスを得、大先輩の宮城県・禅興寺様を頼って、近隣の慈雲院様・地蔵寺様と共に行ってまいりました。
とは言え、自分たちが何処で何ができるか皆目見当がつきませんでしたので、あらかじめ禅興寺様に指示をいただき、微力ながら、気仙沼市・地福寺様にて瓦礫の仕分け作業をお手伝いさせていただくことができました。
道中、南三陸町を通りましたが、震災直後にテレビに放映されていたとおりの惨状を目の当たりにし、屋上に患者さんが避難されていた病院、最期まで町民に向け避難を促したという女性のおられた役場横の防災センターの鉄骨など、手を合わさずにおれませんでした。
また、この日がようやく小学校の始業式だったらしく、迎えに来たバスに乗り込む子供たちを見送る家族の姿がたくさんみえました。街が急に悲惨な光景に一変してしまい、不自由な環境の中でも笑顔を見せながら登校しようとしている子供たちを見て、久しぶりに人間のたくましさを感じました。家を失ったり、家族を失ったり、友達を失ったりで、不幸のどん底に突き落とされた子供達ばかりでしょうに、きっと将来強く生きていくことのできる大人に成長されていくのだと思います。
さて、私達一行が禅興寺様らと共に向かった先は、気仙沼市の地福寺というお寺でした。大字が波路(なみじ・・・と読むのでしょうか)という場所で、海岸から約1キロほど内陸に入った所に、去年新築なさって何とか持ちこたえた本堂だけが残されていました。皮肉にも地名の通り、全てが津波を受けてしまい、周辺は瓦礫だらけでした。以前は境内からは海が見えなかったそうですが、私達が参上した時には、何も無くなった住宅地の向こうに青い海が静かに広がっているのがよく見えました。
境内に散乱していた瓦礫を、業者さんに撤去してもらうため、私達は木材、粗大ごみ、瓦礫などという具合に仕分けしなくてはなりませんでした。気の遠くなる量でしたが、ちょうどその日は私達の他にも、全国から若い和尚さん方がお手伝いに来ておられ、総勢20名近くの人員で作業することができました。
作業中、何度も頭に浮かんだことは、下呂からせいぜい9時間から10時間ほど車を走らせただけの近い所で、こんなに世界が変わってしまっているという事実と、私どもはまた以前と何も変わらない生活に戻っていくのに、ここでずっと生きていかなければならない方たちがいるという事実でした。そこに共生・平等という言葉に対する矛盾を感じ、罪悪感さえ覚えました。
そんな中、午後3時の休憩に地福寺ご住職夫妻がお茶を出して下さいました。何ということもない世間話から、震災にてご自身が感じておられることまで、お話を聞くことができました。また、慌てて避難した隣の家屋の二階から携帯電話で撮影された、津波の第一波の引き潮の動画も見せていただきました。「速い!」と感じました。
特に印象的だったのは、お2人がとても淡々としておられ、私達の前だったからかもしれませんが、つとめて明るい表情をされていたことです。
「まさかこんな所まで津波が来るなんて、全く想像してなかったよねぇ。」
「ここがこんなに海に近かったなんてねぇ。」
という具合にとても気さくで、こちらに気を遣って下さっているような感じでした。
一方で最後に
「いろんな経験をさせてもらってます。皆さんのおかげです。お1人お1人の力が、本当に大きな力です。」
「お手伝いいただくためじゃなくても、是非この現実を多くの方に見ていただきたいと思います。」
と、私達を労って下さるお言葉と同時に、ただ、現実に起こったこと(自然と共に生きる厳しさ)を自分の眼で見てほしいという願いのお言葉をいただきました。
人間の力で、科学の力でもって自然の脅威に対抗するのではなく、その自然によって恩恵をも受けて生きている中で、どう人間は生きていくべきかを問われているような気がしました。そして「決してこのことを忘れてはならない!」という教訓をいただいたように思いました。
厳しいお言葉とは裏腹に穏やかな笑顔で話して下さるご住職夫妻にも、手を合わさずにおれませんでした。
まだまだ書きたいこと、伝えたいことはたくさんありますが、とにかく貴重な経験をさせていただきました。地福寺様のみならず、被災地の皆様方のご健勝をせつにお祈り申し上げます。
また、同じく被災されたにも関わらず、私共を快く受け入れて下さいました禅興寺様、禅興寺花園会青壮年部・女性部会長の石垣様に深謝申し上げます。
写真〜楓月庭の石楠花のつぼみ〜
東日本大震災から1ケ月以上過ぎていますが、未だ復興の目途がたたない様子です。被災地の方々には心よりお見舞い申し上げます。
私自身も現地に赴く予定ですが、恐らく想像以上の惨状を目の当たりにすることは間違いないと思います。身につけるものは革で揃え、カッパやヘルメットなどを用意しています。とにかく瓦礫の撤去作業が進んでいないらしく、人手が何より必要とのことです。
振り返ると16年前の阪神・淡路大震災の時も、ちょうど学生でありましたので、2ケ月間の春休み(1月末〜3月末)を利用して京都から神戸へ通いました。交通網がマヒしていたため、片道2時間以上かけて通い、瓦礫の撤去作業と仮設住宅に必要な物資の搬入をお手伝いさせていただいたことを思い出します。
あの時も気の遠くなるような毎日で、これからどうやって復興していくのだろうと、思っていました。今回は更に被災地の範囲が広く、地震の他、津波・原発事故と、トリプルパンチを受けています。しかし、16年前と今とでは自分の置かれている立場も違い、できることは非常に限られていますが、何よりみんなが普通の生活に早く戻れることを願っています。
先日、私たちの氏神様のお祭りがありました。祭礼だけでお旅行列は自粛しようという声もあったそうですが、今こそ復興祈願のために全てを例年通りにやらなきゃいけない!ということで挙行されました。
この氏神様のお祭りは神社の催しですので、私は毎年若干のご祝儀とお供えを用意するだけで、当番の時以外は寺に籠っております。今年はたまたま外で掃除をしていました。すると観光客の中の何人かが声をかけて下さいました。
その方たちは福島県から名古屋市内の親戚を頼って避難しておられるご家族でした。親戚の勧めで下呂温泉にお越しになり、久しぶりにゆっくりできたと喜んでおられました。
「下呂温泉も旅館のお風呂がいいだけで、他に何もありませんからねぇ。」
とお愛想で私が申し上げましたら、即座にこうお返事なさいました。
「そんなことありませんよ。普通にお土産物屋さんがある、喫茶店や飲食店もあるし、お寺もある。それより何より人がいる。これでいいじゃありませんか。いろんな人がそれぞれに生きている。他に何もいらないですよ。」と。
このご家族がお住まいだった街に、今は誰もいないらしいのです。
普通でいれることのありがたさ
これをしみじみと感じておられる様子でした。改めて私も痛感させられました。
その何時間か後、また同じご家族が、今度はわざわざ玄関にお越しになりました。何かあったのかなとお尋ねすると、
「今、たまたまお祭りのお旅行列を見てきました。観光客対象のイベントではない、所謂田舎の氏神様の祭典であろうと思いますが、そのお神輿の四方に復興祈願と大きく書かれていて、義援金箱もありました。こんな山奥の人たちも、私たちのことをちゃんと想ってくれているんだと感激しました。ありがとうございました。」
私はただの寺男で、このお祭りに直接関与していませんが、この言葉を聞いて嬉しく思いました。このことはお祭り関係者や地区の皆さまにも早速お伝えしました。
想いは必ず伝わる!これからも自分にできることを、小さなことでも続けていきたいと思いました。4月28日は震災から数えて四十九日目。未だ行方のわからない方も多くおられますが、被災して失われた多くの方々の命を偲び、追悼法要を予定しています。また2時46分より、追悼の梵鐘を多くの方についていただきたいと思います。
ご遺族の皆様にはあまりにも早い四十九日であったと思いますし、胸中にいろいろな想いをお持ちのことと存じます。しかしながら、共に生きていただきたいという願いもこめて、追悼の梵鐘を捧げたいと思います。
このたびの東日本大震災にては多くの尊い命が失われてしまいました。それと同時に大切なもの全てを失った方々が、被災地の多くの避難所にて寒さに耐えながら物不足な中での生活を強いられています。
今、私にできることは限られてはいますが、被災なさった方々の身に自分の身を置き換えて実行していきたいと思っています。
ところで私たちの所属である臨済宗には、このような言葉が伝わっています。
「照用同時」〜しょうゆうどうじ〜
中国の碧巌録という語録に出てきます。「照」は見るという意味。「用」は動くとか、働くという意味で、要するに見ることと動くことが同時に行われることです。例えば、歩き始めた赤ちゃんがヨチヨチ歩きしていて転びそうになったとき、とっさに手を添えてあげる働き・動きを思い浮かべてみられたらわかりやすいでしょう。
この時のポイントは、転びそうになった赤ちゃんに、手を差し伸べて介添えしたことに対して恩をきせたり、後から何かを求めたりは決してしないことです。誰でもそうですよね。赤ちゃんは可愛らしい微笑みを見せてくれ、こちらもそれを見て心が和みます。ただそれだけなんです。これを「照用同時」といい、本当の助け合いというのではなかろうかと思います。
臨済宗の根源的存在である達磨大師(ダルマさま)はここのところを強く伝えておられます。
当時の中国、梁の皇帝武帝に歓迎歓待されたときにさえ、自他不二、一切空の立場を貫かれました。梁の武帝という皇帝は深く仏教を信仰されており、多くの寺院建立、僧侶への布施を惜しみなく続けておられました。仏心天子とよばれるほど、仏教を大切にして下さっていたのです。その武帝に、自分はどれほどの功徳があるのかを尋ねられ、
「無功徳!!」
と、いともあっさり申されてしまいました。
達磨大師の意図は、もう皆様おわかりでしょう。 つまり、仏教に対して尽力なさった武帝の行動は素晴らしいのですが、そこに自分だけの功徳を求めてはいけなかったのです。達磨大師は、功徳の有る無しという世界すら、消し飛ばされたのです。
ちなみにこの時、武帝は激怒し、達磨大師を追い返されたのですが、後にこの達磨大師の教えを深く理解され、もう二度と対面されることは無くても、仏教を信仰し続けられたのでした。
震災後、日本全国の人が皆、被災者の方々に向けて、今、自分にできることは何かを考えながら、そして実行されながら生活しています。一人一人の努力は決して大きいものではなくとも、その努力は輝きを放つ貴重なものです。恐らく皆が自ら求めるものの無い「照用同時」の世界を実行しているときではないかと思います。
求めるものがあるとすればただ一つ。被災者の方々の安全確保・早期復興、それだけです。私自身も微力ながら、今できることをさせていただきたいと思います。
最後に、文章中に適切ではない例え、表現がありましたらお詫び申し上げます。未熟者の寝言だと理解していただけましたら幸甚に存じます。
(上部の写真は、去年の春、山で採ってきた葉ワサビです。1年間で株が若干大きくなりました。境内裏山「楓月庭」の水屋の水路で育ってくれています。小さくもたくましい命に、励まされています。)
皆さま、あけましておめでとうございます。
相変わらずノラリクラリの茶話にお付き合いいただき、御礼申し上げます。
今年も1年、宜しくお願い致します。
さて、温泉寺の年越しですが、毎年「除夜の鐘・元旦修正会」という法要を営んでおります。参拝者には自由に除夜の鐘をついていただき、本堂で自由にお参りされたのち、お1人お1人にお屠蘇を振る舞い、新年のご挨拶をして記念品(干支色紙など)をお渡ししています。おかげ様で近年、この初詣の参拝者の数が急増しています。今年は除夜の鐘が300発以上、下呂の街に鳴り響きました。
そうした中、住職は本堂はじめ諸堂にて1年間の国家平安、五穀豊穣、参拝者の健康安全を祈願しています。境内には当然スタッフの方たちが火を焚いたり、参拝者の誘導、足元注意を呼び掛けて下さっています。寒い中本当にありがたいです。
ところが、どうしても毎年毎年今一つ解決に至らない懸案事項があるんです。それは本堂でのご挨拶、お屠蘇振舞をして下さる方がいないのです。何とか毎年私の家族の者と、男性スタッフの方とでやってきましたが、やはり1年で一番おめでたいご挨拶、1番おめでたい縁起物をいただくのに、女性からいただいたほうがありがたいとの要望が強く、解決に至っておりませんでした。頼めばいくらでもお手伝いいただける方があるのですが、それも年越しという大事な家族行事を枉げていただくことになりますから、なかなか声をかけることができません。
いろいろ悩んでおりましたら、近所の女の子が手を挙げてくれました。現在大学生で遠方にお住まいですが、必ず除夜の鐘つきに毎年来てくれる子です。よく聞いてみましたら、今年成人式を迎えるらしく、同級生の友達を何人かつれてお手伝いしていただけることになりました。
こうして本堂には新成人の女の子が3人並び、おめでたい雰囲気が倍増し、寒さも半減致しました。
江戸時代の大俳聖・松尾芭蕉の門下で、俳諧師の服部嵐雪に
梅一輪 一輪ほどの あたたかさ
という句があります。梅の花一輪ごとに暖かい春がやってくる、春が待ち遠しいという意味になろうかと思います。
温泉寺にとりましては、元旦のお手伝いをしてくれた新成人3人の女の子がまさしく梅三輪でありました。極寒の中での除夜の鐘・元旦修正会でしたが、その中で本当に温かい初春を感じました。
新成人としての第1歩を、温泉寺でのお手伝いから始めて下さったことに、住職として本当に感激致しましたし、みんなが喜びました。本当にありがとうございました。この3人様にどうか幸あらんことを念じてやみません。